牧師のひとり言の目次 

絶対安全地帯

 ある雑誌に絶対安全地帯という名前のコーナーがありました。安全地帯にいれば危険に会うことはなく、自分の身は守られます。そこにさえいれば大丈夫なわけです。
 自分は安全なところにいて溺れかけている者に向かって、こっちに泳いでこい、と言ってもなんの助けにもなりません。誰かが大変な時に、自分は安全地帯にいて、ああしろ、こうしろと言ってもほとんど助けにはなりません。
 嵐の中で弱っている者を助けるには自分が嵐の中に出て行かねばなりません。仮に自分が嵐の中を生き抜いてきたからといっても、その生き方が同じように相手にも通じるかどうかはわかりません。通る道も、嵐も、そしてその人の状況も全部違うのです。たとえ同じだとしても、安全地帯からの発言や行動では外の荒れ狂う嵐の中にいる友を救うことは出来ないでしょう。
 絶対安全地帯から嵐の中へ出て行くことで初めて友を助け、救うこともできます。それは風に吹かれ、雨に打たれることです。自分がしんどい思いをしないでは人の助けにはなれないだろうと思います。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(新約聖書フィリピの信徒への手紙2章6-8節)