牧師のひとり言の目次 

休み

 小さい頃、学校が嫌いでした。学校の授業が嫌いでした。授業中はいつ当てられるかとひやひやしっぱなしだった記憶があります。いつも授業が早く終わらないかと待っていました。分からなくても間違ってもいい、という気持ちがあればそんなことはないのでしょうが、当時はそんな気持ちは微塵もなく、そう言ってくれる人はいたのかもしれませんが自分の心の中にはそんな気持ちはありませんでした。だから学校は緊張して疲れるところでした。
 ことさらいやな授業がある時には、天変地異でも起こって明日までに学校がなくなればいいと何度思ったことでしょうか。でもそんな奇跡的なことは簡単には起こりませんでした。
 学校が火事になれば、台風がくれば、大雪が降れば、などと奇跡的に自分の周りの状況が変わらないことには自分の大変さはなくならない、と思っていました。
 大きくなってからも、自分にとっていやな状況が変わらなければ何にも楽にならないし、全然助けにもならない、と思っていました。状況を変えてくれるものこそが助けであり、奇跡的に周りの状況を変えてくれるものをいつも期待していました。そして神にもそれを願っていました。何とかこの状況を変えてくれ、と。
 イエス・キリストは言いました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)
 イエスは重荷を負う者を休ませる、と言います。重荷そのものを奇跡的になくすのではなく、重荷を負う者を休ませると言います。
 大変な重荷をなんとかしてくれと神に祈ります。でも重荷が一気になくなることはあまりありません。神はその者を休ませ、元気を取り戻させます。そうしてその人が重荷を負う力が沸いてくるようにさせる、そういう方法で私たちを助けているのかもしれません。多くの場合、神の力は私たちの外にではなく、私たちの内に発揮されるではないでしょうか。