牧師のひとり言の目次 

いのち

 最近よく命の終わりを耳にします。病気、事故、災害、あるいは事件、自殺などいつも誰かの死を聞かされているようです。テレビでも映画でも次から次から人が簡単に死んでいくようなものもあります。
 明日の命はだれにも保証されていません。あさってには骨だけになっているかもしれないのです。もしあの時あのようになっていたらもう死んでいたかもしれない、もう少し時間がずれていたら、もう少し場所が違っていたら、と思うようなことが誰にもあるのではないでしょうか。この社会はたまたま死なずにすんでいる者のあつまりなのかもしれません。
 けれども死を考える時はほとんどの場合、誰か他の人のことです。だから死が自分の近くに迫っていることがわかると誰もがうろたえてしまうようです。
 命はいつなくなるかわからない、そしていつか必ずなくなる、いともたやすくなくなるとてもはかないものです。大事にしなければすぐに壊れてしまいます。
 聖書はその命は神から与えられたものだと告げています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)
 生きているということはそれほど当たり前のことではないようです。