牧師って何者?
名前
誕生日
生まれ育った所
性別
家族
趣味
小中学校
高校時代
大学時代
サラリーマン
サッカー
、、、つづきはまたの機会に、、、
名前
:浅海郁典(あさうみ いくのり)
残念ながら海産物問屋でも漁師でもありません。昔教会の黒板にひらがなで名前を書いていたら、小学生が「うみいく」の所を消して「くさ」と書いていた。『おぬし、できるな』。
先日のテレビで、昔大三島(瀬戸内海の真ん中くらいにある愛媛県の島)の人でサツマイモを島に持ち帰った「あさみ」(漢字を忘れてしまった)という人の子孫が浅海(あさみ)という姓だった。関係あるのかなあ。
祖先は水軍だったに違いないと勝手に思ってるが定かではない。
誕生日
:1960年8月29日
最近は髪の毛もめっきり薄くなり、「若い」という言葉を聞く機会もすっかり減ってしまった。
プレゼントを期待して載せているのではありません。しかし拒否しているということでもありません。
生まれ育った所
:愛媛県越智郡波方町波方
広島県竹原市からのフェリー(中四国フェリー)の着くところ。結構田舎。家から来島海峡大橋が見える。あれっていったいいくらかかったのかな。夜のライトアップはなかなかきれい。歩いて渡ると気持ちよかった、ちと疲れたけど。
性別
:男
家族
:妻ひとり、子どもふたり
趣味
:寝ること
疲れた時、いやなことがあった時には寝るにかぎる。いっぱい寝て、そこから力が出てくる、と自分では思っているのだが、周りには怠けていると見えるらしい。
小中学生
:優等生
自分で勝手に思い込んでいただけのことなので確証はない。でも優等生でいないといけないと思い込んでいた(思いこまされていた?)ので学校の授業ではいつも緊張していた。学校が楽しいという奴の気が知れない。
高校時代
:登校拒否
不登校なんていうかっこいい名前は当時はなかったように思う。実際気分は登校拒否で、主体的に不登校だったわけではない。
ずっと自分の部屋に閉じこもるのは全然楽しくなかった。結構つらかった。そのころの何だか後ろめたい気持ちを今でも引きずっている。でも多少なりとも自分の人生を考える時間ではあったように思う。周りの声に反抗して、学校に行かないという自分の主張を初めて通した時だったのかもしれない。もっとかっこいいことで自分を主張できれば良かったのだけれどそんな度胸もなかった。
その後神経科の病院へ入院したり、親戚の肉屋でバイトさせてもらったりした。その時生まれて初めて教会へ行った。別世界だった。
結局2年後れて学校へ戻ることになった。最初は緊張の連続だった。「みんなで祈っているからね」という教会の人の言葉が支えだった。今日は休みたい、と思う連続だった。一ヶ月ほど経ったとき、原因不明の高熱が三日程続いたことがあった。病院に行っても原因不明だったが自然と治った。
でも最近は登校拒否すらもできない連中が多いそうな。
大学時代
:留年
高校の時に一度、牧師になろう、と思った。がらにもなく。でもなんとなく周りと同じように大学に行くことになった。
でもろくに勉強もしなかったので留年してしまった。うちの学科は半分が留年した。その翌年も残りの半分が留年し、その次も・・・という感じだった。こういうのを「半減期が1年である」と言う。(ホンマかいな。)
どうにか1年留年だけでとどまった。卒業する頃は結構景気もよくて求人も多く、ある電機会社に就職した。
このころは牧師になるなんて気持ちはほとんどなくなっていた。あんな大変そうなことしたくもない、人に会うのも話すのも好きじゃないし、何も好きこのんで貧乏することもないし、俺がやらんでも他に適任者みたいなのがいっぱいいるし、と思っていた。
サラリーマン
:怒鳴り声
ついに、やっと、とうとう、サラリーマンになった。入社3ヶ月で出向に出されてしまった。一応勉強のためだった、がやってることは下働きのようなものばかりだった。しょっちゅう間違ってはしょっちゅう怒鳴られていた。なんなんだいったい。こんどまたいつ怒鳴られるのか、と緊張の連続だった。会社に行くのに気が重かった。
こんどは出社拒否でもするか、と思わないでもなかったが、それだけはいやだったので時には休みながらも出勤していた。全然楽しくない。
休みにもおもいっきり休めない感じだった。日曜日に教会に行くことだけが救いだった。
サッカー
:ついに
ところで高校に入ってサッカー部に入り、登校拒否をするまでやっていた。小学校の時に少しだけ野球部だったこともあったけれど、まともに体を鍛えたこともなかったのでサッカー部の練習はかなりきつかった。
最初は腹筋もなく腹痛は起こすし、学校の近くの公園まで走っていってもいつも一人置いてけぼりだった。最初の練習の日だったか、終わって家に帰ろうとして自転車置き場までいった所で足がつってしまった、しかも両足をいっぺんに。ほとんどその場に倒れ込んでしまったような有り様だった。
サッカーシューズの中は親指の付け根と踵にまめができて、練習の度毎に破れ、終わると靴下はいつも赤く染まっていた。しかしそれもしばらくすると固くなってきた。そのころにはランニングに出てもどうにかついていくことが出来るようになり、ボールも少しはまともに足に当たるようになってきた。
そのころからワールドカップのことは知っていた。でもあのころは日本が出るなんてことをまともに考えられなかった。マスコミの扱いも小さく、周りの誰もワールドカップなんて知らなかった。そのころは予選の結果だけが新聞のスポーツ欄の片隅に小さく載っていた。確かイスラエルに負けた時だったように記憶している。
次第にサッカーがメジャーなスポーツになってきた。ついに4年前、そのワールドカップにほとんど手が届きかけた。牧師館でテレビを見ていて、試合終了のホイッスルが鳴ったと同時に「やったー」と叫ぶつもりで、自分の気持ちの中ではその準備がすべて整っていた。ところがその矢先の同点ゴールだった。(ドーハの悲劇というやつ)
この気持ちをどうすればいいんだ、と思いながらいつの間にか4年間が過ぎた。今回の予選もいらいらがつのっていた。第3代表決定戦も相当うっぷんがたまっていた。心臓も早く脈打ったままだった。がついにワールドカップに出れることになった。20年来のあこがれが現実のものとなった、そして4年間のもやもやからやっと解放された、そんな気持ちでいる。
別に代表チームがワールドカップに出ようが出まいが自分の生活とは何にも関係ないはずなのになんでこんなになるんだろう、と思いつつやっぱり喜んでいる。
サンフレッチェ
:J1復帰!!
2002年11月30日(多分)、結婚式の司式を終えてホテルを出たところ、そこの広場の大きなテレビでJ1最終節の試合を中継していた。サンフレッチェ広島がJ2への降格が決まった試合だった。
それまでサンフレッチェのことはさほど興味もなかった。1994年に呉に引っ越してきた年にJ1で優勝したけれども、そのころは殊更好きなチームもなく、広島県に住んでいながらやっぱり他人事だった。 あの日J2へ降格しなかったら、あそこでテレビの前で応援するサポーターの姿を見なかったら、今もずっと傍観者だったのかもしれない。
そして2003年の夏休み、小学校で配られたサンフレッチェと川崎フロンターレのチラシを持って帰り、自分もサッカーを始めほとんどマニアと化している息子から、スタジアムに連れて行ってくれとせがまれた。せめて一度は連れて行かないといけないだろうと思っていたので、二人で広島スタジアムに出かけた。終了間際に追いつかれて引き分けになってしまうという残念な試合だった。
しかしあれが運の尽き?だった。テレビなんかより断然面白かった。グランド全部が見渡せるし、すぐ目の前に選手は見れるし、スタジアムの雰囲気も分かるし、結構興奮して帰ってきた。結局その後広島スタジアムに2度、ビッグアーチに2度足を運んだ。 大雨の中、傘を差したまま弁当を食べながら、どうしてこんなことしているだろうと思いつつ、しかも『動け』コールとブーイングを浴びて最後の最後にやっと追いついた試合もあった。 26,000人がタオルマフラーをブンブン振り回した感動的な光景を横目に見ながら、息子がどうしてもということで応援団に混ぜてもらって、いい年して声を張りあげたりもした。
秋になるとすっかりサンフレの結果に一喜一憂する週末になってしまった。そして11月15日、ビッグアーチには行けなかったがテレビでJ1復帰を見届けた。 ワールドカップが決まった時以来の興奮だった。
さて、来年はどうしよう。年間パスを買うべきか。そんなことしてる場合かと言われそうだけれど、、、。
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